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せかいはせーりつされたことがらのそーたいである

カップルの博愛に与る/プロテインパンケーキ/出生のヒミツ/ダート馬3頭

2024/02/23(金)(天皇誕生日)

「ポケットに入らないモノは持てない」という症状を発症したので、雨の中傘をささずに出かけた。上野の博物館に着いた頃には雨は勢いを増しており、雨宿り目的の邪な群衆により長蛇の列が発生していた。

3列で整理された列に並んだところ、隣は相合傘のカップルだった。品のある会話だったので恐らく雨宿り目的の邪な群衆の一部ではないだろう。そういう偏見を持って会話を盗み聞きしていた。

列を見渡しても傘をさしていない人は見つからなかった。僕自身は雨に濡れてもどうってことないのだが、カップルは気にしたらしい。相合傘が僕の方に徐々に寄せられて来ている気がした。僕は滔々と続く会話を盗みながら髪を掻き上げる仕草をして過ごした。左肩だけ雨に濡れずに済んだ。

 

2024/03/03(日)

数日前、知人に日々の献立を訊かれたので食生活を思い浮かべると、肉を焼くか煮るかしかしていない実態に気づいた。肉はタンパク質を多く摂るために積極的に食べているが、家計を圧迫する。さらに鳥または豚ばかり食べていると飽きが来る。こんなきっかけで、タンパク質に支出する費用の削減と、タンパク質の種類を増やすという2つの野望を抱いた。

野望を叶えるべく、時宜よく訪れたAmazonセールに乗じてミキサーとプロテインを購入し、プロテイン入りのパンケーキを試作した。調理法はパンケーキの材料にプロテインを混ぜ、炊飯器で炊くだけ。食品メーカーのサイトやレシピ投稿サイトを参照しながら自分の調理環境に適合するようにレシピを練った。試作段階で将来性を感じたので、この方向へ技術を磨いていこうという指針ができた。

試作プロテインパンケーキ

 

2024/03/06(水)

電子化された世の中、コンビニで戸籍謄本を取得した。戸籍謄本には出生に関する事項が記載されている欄があるが、そこに記載されていた僕の出生地が、想定していた市区町村ではなくその隣にある市区町村だった。記載されていた市区町村のほうが栄えているので偉い身分に成りあがった気分だったが、調べたら単に産まれた病院の所在地らしいので昇進は見送りとなった。

出生の欄には出生地の他にも出生日や届出日、届出人が記載されている。そこで届出日が法定期限ギリギリだったことは子供にバレるという教訓を得た。また、届出人は父だった。父は既に亡くなっているという情報だけ知っていたのでいつ亡くなったかは不明だったが、これで生後に亡くなったと判明した。微塵も記憶に父はいない。

 

🏇

セラフィックコール、デルマソトガケ、ヤマニンウルス、同世代のライバル3頭は一度もお互いに交戦せぬまま対古馬戦線へ進んだ。3歳ダート戦線で名を挙げていたそれぞれの勢いは歴戦の古馬を相手にしても衰えず、特にデルマソトガケはダート競争の本場アメリカで行われた最高峰のレースBreeders' Cup Classicで2着に入線する快挙を成した。ヤマニンウルスも敗北を知らぬまま涼しい顔で古馬を倒す。

とはいえデルマソトガケは海外を走り、ヤマニンウルスは引きこもりだ。なので二頭の国内重賞レース挑戦は実現せず、その実力が広く周知されることはなかった。そんな2頭に対してセラフィックコールは着実に条件戦を勝利し、みやこS(GⅢ)を勝ち、無敗5連勝の看板を背負ってチャンピオンズC(GⅠ)へ挑戦した。しかし結果は目も当てられぬ惨敗。3頭のライバルで先に崩れ去ったのはセラフィックコールだった。

その後デルマソトガケは中東で敗北を期し、そこで日本の古馬にも先着された。崩れ行くライバル達を知るや知らずやヤマニンウルスは表舞台に出てこない。

中東での敗北を見届けかつての彼らの栄光に思いを馳せていた、まさにその日、日本の阪神競馬場ではセラフィックコールの弟が懸命に走っていた。7番人気の評判を覆しすみれS(L)を勝利したサンライズアースは皐月賞(GⅠ)を目指し歩みを進めている。

軽量化と沼男

【軽量化】

ジブリ映画「風立ちぬ」で庵野秀明演じる堀越二郎が「機関銃を乗せなければ軽くなるんだけどね」というジョークを言って、その場にいる技術者一同を笑わせるシーンがあった。戦闘機の設計で機関銃を外すという元も子もないジョークなんだけど、案外、今まで重要だと思っていたものを捨て去るような奇抜な発想が役に立つ事がある。

 

そこで奇抜にも、過去の記憶を捨て去ることによる自分の軽量化を思いついた。

 

自分が過去に記憶してきたことは膨大で、その中には後ろめたいものも含まれる。だから過去の記憶全体については責任が持てない。しかし今の意識は、刻の流れの最前線のほんの僅かな一瞬なので、現行で後ろめたい事をしていない限りは後ろめたい事は何もない。

つまり過去の記憶を捨て去れば、軽量な今の意識だけにのみ責任を持ちさえすれば良いので、楽。

 

【沼男】

ある男がハイキングに出かける。道中、この男は不運にも沼のそばで、突然雷に打たれて死んでしまう。その時、もうひとつ別の雷が、すぐそばの沼へと落ちた。なんという偶然か、この落雷は沼の汚泥と化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまう。

この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。スワンプマンは原子レベルで、死ぬ直前の男と全く同一の構造を呈しており、見かけも全く同一である。もちろん脳の状態(落雷によって死んだ男の生前の脳の状態)も完全なるコピーであることから、記憶も知識も全く同一であるように見える。沼を後にしたスワンプマンは、死ぬ直前の男の姿でスタスタと街に帰っていく。そして死んだ男がかつて住んでいた部屋のドアを開け、死んだ男の家族に電話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みふけりながら、眠りにつく。そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。

スワンプマン - Wikipedia

 

Donald Herbert Davidson(1917-2003)のスワンプマン(Swampman)という思考実験では、自分の完全なコピーは自分なのか?という疑問が投げかけられる。自分が完全に再現されたスワンプマンは、雷に打たれて死んだ自分と同一なのだろうか?

 

スワンプマンは自分の完全なコピーなので、記憶は雷に打たれた自分と完全に一致する。なので「過去の記憶によって自分が構成される」と考えるのならば、スワンプマンは自分と同一。

対して「刻の流れの最前線のほんのわずかな一瞬の意識によって自分が構成される」と考えれば、スワンプマンは自分と同一ではない。何故なら自分の意識は雷に打たれて既に絶たれているから。

 

つまり「スワンプマンは自分と同一ではない」という考え方は、「自分」の正体は「過去の記憶」ではなく「今の意識」であると仮定する事によって出来るようになる。

 

先ほどの【軽量化】の案は、この「スワンプマンは自分と同一ではない」とする考え方と共通する。どちらも過去の記憶には目を向けず、今の意識にだけ焦点を当てているから。なので自分を軽量化するなら、スワンプマンの思考実験においても【軽量化】と共通した考え方を信じなければ、一貫性が無い。よって自分を軽量化するには、筋を通すために、「自分とは何なのか?」という難解な問いにおいて一方向に舵を切らねばならなくなった。つまり自分とは今の意識であり、過去の記憶ではない。

 

こうして、今の意識こそが自分の正体であると信じる事になった。昨日の自分は他人である。頑張って信じよう。

 

と、決意を固めた次の瞬間、雷に打たれて死亡した。

🌽🌽人類の起源はトウモロコシ🌽🌽

 

ダーウィン「人類は猿人🐒から進化した」

メソアメリカ先住民「人類はトウモロコシ🌽から創られた」

 

画像はメソアメリカで祀られていたトウモロコシ🌽の神🌽🌽🌽🌽

 

そんな、トウモロコシ🌽をこよなく愛する文明、古代トウモロコシ文明🌽🌽の特別展が東京国立博物館で催されていたので行った。

 

・・・が、閉まってた。月曜日は博物館の休館日だった。

 

気を取り直して後日、出直した。

 

ここで白状すると実はトウモロコシ🌽に興味はない。ただ「トウモロコシ🌽から人間が産まれた」というキャッチーな神話が記憶にこびりついてしまっただけ。あとトウモロコシ🌽の絵文字かわいいし。穀物の中で一番かわいい顔してる。ただそれだけ。トウモロコシ🌽の事なんて好きじゃない。

興味はメソアメリカの文明で行われていた生贄の習慣にある。死と密接な文化の中で創られたさまざまな出土品が好き。それらのどれもが恐ろしくて、それらのどれにもべったりと死が貼りついている。

現代の高度に発展してしまった文明は安全で、死を感じる事なんて滅多にない。むしろタブー視されて意図的に隠されているようにも思える。だから普段は生きている実感もなく、曖昧でぼんやりした感じしかしない。生を、輪郭をもって感じる為には対比となる死が必要だと思う。

メソアメリカの出土品を見ると、なまぬるい現代社会に浸りきった脳に電撃が走る。どれもめっちゃ怖い。死が身近に存在する文明で創られた出土品が生の輪郭を縁取る。だから生贄の習慣のあったこれらの文明に興味があって、古代メキシコ展に行くのをとても楽しみにしていた。

とても楽しみにしていたから、行って定休日で閉まってた時、すげえショックだったよ!

 

展示品はどれも怖い。髑髏とか不気味な立像とか。神様を模した水瓶や、生贄の心臓を置いていたと言われているチャックモールは、求めていた古代メキシコ独特の造形で、満足。

 

特に怖かった展示品はこれ。人間の頭蓋骨が置いてあった。眼孔に貝殻と鉱物が嵌め込まれていて、前頭部に開いた小さな穴はかつて毛を差し込んでいたらしい。写真ではわかりずらいけど、眼孔に嵌まった鉱物が化学変化の為か隆起していてグロテスク。

 

思えば現代日本で頭蓋骨を見る機会なんてあまり無い。火葬された親族の人骨もボロボロの状態で出てくるよね?

 

特に不気味だった立像はこれ。こいつと鬼ごっこをするホラーゲームを作ったら、そのゲーム実況がニコニコ動画で流行りそう。洋館の中で追いかけてきそうなビジュアルをしている。このような人型の像は他にも多く展示されていて、いくつかは副葬品として遺体と一緒に埋められていたっぽい。

 

これはトウモロコシ🌽の豊穣に欠かせない、雨を司る神様を模した水瓶。音声ガイドを購入して聞きながら見て回ったんだけど、声優の杉田智和がこの雨の神様の役を演じていた。

 

これは有名な、チャックモール。腹上の台に生贄の心臓を捧げたとか。まだかすかに蠢いて、血が滴る心臓が見える・・・?

メソアメリカと言ったらイメージはコレだった為、見れて良かった。

 

このイメージは幼少期に遊んだニンテンドー64ソフト「バンジョーとカズーイの大冒険2」のステージ「マヤヤンしんでん」で形成された。しんでんの頂上にあるチャックモールの腹上で聴くこのステージのBGMが最高。

youtu.be

 

ついでに、CIV6の食料のアイコンはトウモロコシ🌽であると、トウモロコシ🌽の絵文字を入力しまくっていて気づいた。

 

皆さんもスペイン人と感染症に注意しながら、豊かなトウモロコシ🌽生活を送ってください。あと東京国立博物館は月曜日が休館日です。注意しましょう。

高尾山に行った

私は山を舐めているので、登山経験がほとんど無いにも拘らず、高尾山の中でも難易度が高いと言われている六号路を制覇するという大志を抱いて、頑なに眠り続けた酔っ払いが辿り着くという世界の果て「高尾山口駅」に降り立った。

京王線高尾山口駅

高尾山口駅からしばらく歩くと山麓のケーブルカー駅に着く。他のコースならばケーブルカーに乗れば途中までコースをスキップできるのだが、六号路にはまだそのような高度なインフラを扱える文明は訪れていないので、山頂までひたすら己の脚で登るしかない。立派なケーブルカーの駅舎を横目に、左脇のつまらない道路を進む。

清滝駅(ケーブルカー乗り場)

しばらく歩くと、禍々しい瘴気を放つ六号路の入口が現れる。

六号路の入り口

苔が生えていてエンシェントみがある石柱。どうやら六号路の道中には修行に使われている瀧があるらしい。

「高尾琵琶瀧水行道場」と書かれた石柱

入口の看板に「森と水」と書いてある。碌に調査もしていないので知らなかったが六号路のテーマだろう。

六号路入口の看板

入山した。しばらくは均されたような道が続く。勾配も緩やかなので西東京の森のバイオームを鑑賞しながら余裕を持って歩いて行く。すぐ横には沢が流れており、涼しげな水音が聞こえてくる。とはいってもこの時の気温は30度overで、既に自律神経が猛暑と格闘していて汗ダラダラ。

六号路①

不気味な気配を感じると、深緑の岩壁にぽっかりと空く黒い洞穴があった。六号路入口で感じた瘴気はここから出ていたんだ・・・。あまりにも強い瘴気だったので、怖くなってすぐに退散した。

岩屋大師

さらに進むと修行場に着いた。ここで修験者は瀧に打たれるのだろう。神聖な結界で封鎖されていたため、邪悪な心を持つ私は結界に阻まれて、近くで瀧を見ることは出来なかった。

 

琵琶瀧

ここからは修験者すら立ち入らない路。だんだんと険しくなってきた。ところどころ樹木のエナジードレインによって行く手が喰われている。山が、喰うか喰われるかの厳しい世界である事を認識した。

六号路②

不安定な樹木の根を乗り越える度に、脚のエナジーを吸い取られながら登っていると、稜線の向こう側にベンチがチラ見えした。アクエリを水道水で薄めた2ℓペットボトルを持って来たので座って飲んだ。周りには動植物しかいないので、デカいペットボトルをラッパ飲みしても恥ずかしくない。

ベンチ①

名残惜しいベンチを発ち、再び鬱蒼とした山林を登り進める。体力は回復したが猛暑の勢いは止まらず、服は汗でベチョベチョ。脱水症を危惧し始めた。

六号路③

疲れてきたところで2回目のベンチとの邂逅。ベンチを見つけると脳から、出てはいけない幸せになるホルモンが出るようになった。

ベンチ②

ちょろちょろと流れる沢に、苔むした倒木。そういえば六号路のテーマは「森と水」だった。路は狭く険しく、油断をすると山に喰われる。そう、ここは喰うか喰われるかの厳しい世界。

六号路④

暑い・・・疲れた・・・勾配がキツい・・・ベンチ・・・どこ・・・。

六号路⑤

三叉路に尖った岩が置かれていた。これはただの尖った岩でしかなく、ベンチではないが、疲労困憊の私にとってこの岩はベンチにしか見えなかった。尖っている事なんてこれまでの疲労に比べたら些細な問題で、尻の痛みを代償に英気を養った。

尖った岩

これは驚いた。六号路は沢を直に登れとおっしゃる。高尾山が繰り出す「森と水」の奥義が牙を剝いて襲い掛かる。

六号路⑥

路はどこまでも沢の流れでビシャビシャで、おまけに険しい。ここにきて通気性の良いメッシュ生地の運動靴を履いてきたことを後悔した。足場に注意を向けながらの歩みは体力消耗を加速させる。

六号路⑦

やっとの思いで、奥義「森と水」を越え、登り進めると人工物が見えた。あれは・・・ベンチ・・・じゃないな・・・あれは・・・階段・・・?

——地獄の階段編が始まる。

階段①

これを作った人はゲームバランスを考えていない。果てしなく続く階段に絶望し、登ることをしばらく諦め、一段目の縁に座りうなだれた。

階段②

数十段登っては情けなく縁に座り、また数十段登っては座り・・・を何度も繰り返し、それでもまだ階段は続く。疲労と暑さはピークに達している。一体どこまで続くんだ。

階段③

階段を乗り越えるとそこはエデンだった。恋焦がれていたベンチがたくさん配置されており、幸せホルモンがドバドバ。

 

ベンチ天国

心ゆくまでベンチを堪能してからエデンを通過すると舗装された道に出た。そして遠くに見えるのは・・・建物?

舗装された道はどこへ繋がるのか

舗装された道は水道へと繋がっていた。ペットボトルは既にカラ。運動部の中学生みたいに蛇口を上に向けてゴクゴク飲んだ。周りにはいろいろな施設があるし、きっとここはほとんど頂上に近い場所なんだ。

顔と腕を濯いで冷たくて気持ちよかった水道

邪悪な気配を感じると、序盤に見つけた洞穴をはるかに凌ぐほど強い瘴気を出す「氷」の旗がはためいていた。これはとても恐ろしい。修行が足りない私は一瞬のうちに体の自由を奪われて店に吸い込まれた。

いろいろ売ってたお店

きめ細かい氷の粒が食道を通過して胃に落ちる。美味すぎて失神しかけた。なんだいこの、不気味な青白さで光る食べ物は。

 

ブルーハワイ味(600円)

そして高尾山の頂上に到達した。

山頂

山を舐めていたせいで山に喰われかけたが、そのおかげでかき氷が美味しかった。既にもう、思い出がかき氷しかないほど美味しかった。絶景とかどうでもいい。ここは喰うか喰われるかの厳しい世界。記憶がかき氷に喰われてしまった。かき氷を喰ったつもりがかき氷に喰われてしまった。さらば高尾山。いつか、こんどこそかき氷を喰いに来よう。あと、幸せな気分になれるベンチにも座りに来よう。

景色

 

高尾山口駅は、泥酔した状態で京王線に乗るとごく稀にたどり着けるという、ポケモンマボロシ島みたいな駅です。みなさんも高尾山口駅に運よく辿り着いてしまった際には、始発を待つついでにふらりと登山なんていかが?

 

 

童話と極右を間違えた話

当時僕は、何も知らない純真無垢な学生(18)だった。

活字媒体に苦手意識を持っていたので、今こそ苦手を克服しようと、本屋に足を運んだ。

読めればなんでも良かったので、目立つ場所にある陳列棚から本を選び、購入することにした。

陳列棚には星の王子様(サン=テグジュペリの童話)と極右本が並んでいた。

ここで言う極右とは政治思想の右翼という意味である。

なんでそんなナショナリズム的な本が、グローバルに読まれている童話と隣同士に並んでいたのかは知らないが、極右本はその内容らしからぬ、ゆるふわなタイトルと装丁で着飾っていた。

その外見は星の王子様の隣によく馴染んでいて、それらが並んで陳列されている事に違和感が無かった。

そして僕は陳列棚に並べられた二つの、その内容に天と地ほどの差がある本のどちらか一方を選んで購入することになる。

運命の選択である・・・

 

僕は騙された。

悩んだ末に、極右の方を手に取ってしまった。

 

カバンの中に国粋主義が入っているとは露知らず、僕は家に帰り、ゆるふわな装丁を開いて読み進めると

――隣国への批判が巧妙なメタファーを駆使してびっしりと書かれていた。

 

(ちゃんと全部読みました)

可哀そうなのは抜けない。

 先日の事象による心の汚染物質が未だに残留している。連日、見るに堪えがたい怪文を投稿する様は狂人と勘違いされる原因になるから可能な限り避けたいのだが、僕は心に放射性廃棄物を抱えている時にしかブログを書くモチベがない為に、ここに清らかな文章が掲載されることはまず無いだろう。

 先日僕は"脳が破壊された"というミームに照らして放射性廃棄物を表現したのだが、より一層適切なのは"可哀そうなのは抜けない"であることに気づいたのでそれについて書いていく。

(※先日の記事は削除済み)

 日本の匿名インターネット世界には"可哀そうなのは抜けない"という言葉通りで何ら捻りもないミームが存在する。かくいう僕も可哀そうなのは抜けない。抜けないどころかあまりにも女の子が可哀そうな場合は不快な動悸を催すかもしれない。

 可哀そうという感情は例えば僕が相手の状況に置き換わった時にどう感じるかという様な”共感”によって引き起こされる。これは人に共感されたく無いが為にコミュニケーションを取ることが怖くなってしまった僕が言うんだから、おそらく3割くらいは合っていると思う。なのでこれからはその体で話を進めていく。

 家畜に対する共感が少ないのに対して女の子に対する共感が大いにあるのは、これは当たり前すぎて失礼だが、家畜よりも女の子の方が僕に近い生き物だからだ。例えば食肉生産の工程である屠畜に対しては可哀そうと思わないが、女の子が鮨詰めの満員電車に揺られながら通勤・通学する姿はちょっとだけ可哀そうだなと思う。しかし女の子よりも僕に近い生き物であるはずの男の子が午前8時頃の京王線特急新宿行きに乗っていたとして、それが可哀そうと思うだろうか?まったく思わない。だからもしかしたら生き物として近すぎたり遠すぎたりするのはダメで、程よい近さが可哀そうな感情を引き起こす要因なんじゃないか?女の子が生き物として程よく僕に近いから、程よい共感によって、可哀そうと思うんじゃないか?

 僕はよっぽどでない限りは嫌なことがあっても良いので、性別が同じ故に僕との共感が大いにある男の子は、きっと僕と同じように自身に嫌なことがあっても良いと思っているだろうと推定する。対して僕と女の子は、性別が違う故に僕と男の子よりも比較的少ない共感しか出来ないから、嫌なことがあると良くない可能性が浮上してくる。だからもしかしたら嫌なことがあると良くないかもしれない女の子には嫌なことをしてほしくない。嫌なことが良くない女の子が嫌なことの代名詞である満員電車に乗るのはちょっと可哀そう。男の子はほとんど僕のようなものなので、駅員に押し込められて背広のおじさんたちの胸と背中の間でミンチにされたとしても可哀そうじゃない。

 僕は対象との共感が大きいほど僕に置き換えて考えることが出来、小さければ出来ない。僕はどのようになっても良いので、僕との共感が大いにある人もどのようになっても良い。しかし共感が少ない人はどのようになっても良くないかもしれない。だから共感が少ない女の子には嫌そうなことをしてほしくない。嫌そうなことをしてほしくないから、嫌そうなことをしている女の子は可哀そうだから抜けない。

2022年5月29日

福沢のゆきっちゃんがいってた

勉強した人が偉いって

でもね

勉強したほうが偉かったのは

ゆきっちゃんが学問ノススメを書いた明治初期という時代においてであって

旧石器時代に偉かった人はたくさんマンモスを倒した人かもしれないし

2022年に偉い人はチャンネル登録者数が多い人かもしれない

 

 

さらに時代という区分以外にも

世の中にはたくさんの区分があって

区分ごとに評価が違うので

人の偉さを判定するのは難しい

イタリア人で偉い人はおいしいパスタが作れる人かもしれない

 

 

さらにゆきっちゃんの価値観のなかで偉いという評価を下すのであって

価値観が変われば偉さの評価も変わる

やっぱりイタリア人で偉い人はナンパをたくさんする人だ!

 

 

そもそも偉いという評価がおおざっぱすぎて伝わりにくい

「ナンパをたくさんする人」と言えばいいものを

「偉い」という広大すぎる言葉だけで表すと多種多様の誤解を招く

ゆきっちゃん「あの人は偉いんだよ(ナンパをたくさんした実績がある)」

あなた「へー(きっとたくさんマンモスを倒した人なんだなあ)」

 

 

だからね

ゆきっちゃんはこう言うべきだ

「明治初期の日本人は勉強をたくさんすれば国家の繁栄に寄与できる可能性が高く、わたくし(ゆきっちゃん)は国家の繁栄に寄与する人が偉いという価値観を持っておりますので、勉強をたくさんする人は偉いのです。」

 

 

でもちょっとまって

これってそもそも

「明治初期の日本人は勉強をたくさんすれば国家の繁栄に寄与できる可能性が高い」という具体的な事実だけでよくて

偉いとか偉くないとかいらなくね?

「わたくし(ゆきっちゃん)は国家の繁栄に寄与する人が偉いという価値観を持っております」とか

「勉強をたくさんする人は偉いのです。」とか

いらなくね?

偉いとか偉くないとかは結局

ゆきっちゃんがどう思ってるかであって

ゆきっちゃんがどう思ってようと

どうでもよくね?

 

 

偉いとか偉くないとか

良いとか悪いとか

上手いとか下手とか

抽象的な言葉にはあまり意味がなくね?

大きいとか小さいとか

多いとか少ないとか

高いとか低いとか

具体的な表現だけでいいんじゃないの?

 

 

ゆきっちゃんがブイブイ言わせてた頃のちょっと後にね

オーストリア産まれのね

Wittgensteinっていう哲学者がブイブイ言わせるんだけど

もしかしたらこのWiっさんが示した「語り得ぬもの」のなかに

偉いとか偉くないとか

良いとか悪いとか

上手いとか下手とかが

含まれるかもしれないんだよね

 

 

Wiっさんは倫理的なものが「語り得ぬもの」に含まれることを示したのだけど

偉いとか偉くないとかはゆきっちゃんの価値観によって決まるもので

これはまさにゆきっちゃんの倫理とか道徳だよね

つまり

偉いとか偉くないとかは

倫理的なものなので

「語り得ぬもの」なのだ

 

 

Wiっさんは結局「語り得ぬものは沈黙せねばならない」という「語り得ぬもの」を言って著書を締めくくるのだけれど

Wiっさん自身がこのようなジョーク的なことを言っているように

「語り得ぬもの」は面白いのだ

魅力があるのだ

 

 

だから

「明治初期の日本人は勉強をたくさんすれば国家の繁栄に寄与できる可能性が高い」

という具体的な事実だけでは面白くない

「わたくし(ゆきっちゃん)は国家の繁栄に寄与する人が偉いという価値観を持っておりますので、勉強をたくさんする人は偉いのです。」

とまで言ったほうが面白い

ゆきっちゃんがどう思っているか

ゆきっちゃんがどのような価値観を持っているかということに

とても魅力があって

もしかしたらそれがとても大切なのかもしれないのだ

 

 

偉いとか偉くないとか

良いとか悪いとか

上手いとか下手とかには

人の倫理や道徳が垣間見えて面白い

魅力がある

 

 

でも「国家の繁栄に寄与する人が偉い」と思わない人にとって

「国家の繁栄に寄与する人が偉いという価値観」は

とってもfuckingな倫理や道徳だよね

だからゆきっちゃんの存在は

ある人にとっては

とってもモラハラ的な存在だよね

ゆきっちゃん「あの人は偉いんだよ(ナンパをたくさんした実績がある)」

あなた「へー(きっとたくさんマンモスを倒した人なんだなあ)」

ゆきっちゃん「だからあの人は美容に気を使っている」

あなた「美容とかどうでもよくね?」

ゆきっちゃん「どうでもよくなー--い!!」

 

 

倫理や道徳は面白いけどモラハラ的なのだ

モラハラと面白さはトレードオフなのだ

モラハラ的な人がきらいなら

倫理や道徳を削り落とし

面白さを求めるなら

倫理や道徳で縛り上げる

 

 

倫理や道徳を削り落とした先には

「天は人の上に人を創らず」的な世界が待っているし

倫理や道徳で縛り上げた人には

「私は人の上に人を創る」的な世界が待っている

 

 

倫理や道徳は人生のレバレッジなのだ!

 

 

ということは

Wiっさんの

「語り得ぬものは沈黙せねばならない」的な立場は

ぜんぜんレバレッジの利いていない

ものすごく平穏な世界なんじゃない?

Wiっさんの世界は

「語り得ぬものは沈黙せねばならない」自体がもつ面白さしか存在しないんじゃない?

 

 

あなたは人生にどのくらいレバレッジを掛ける?