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せかいはせーりつされたことがらのそーたいである

食文化泥棒

2024年9月13日

国家は、義務教育期間中に子供たちへ共通する文化を植え付ける事によって、国民を形作る。そして日本では、給食制度によって決められた献立や食材を子供たちに食べさせることにより、子供たちの味覚を日本色に染め上げている。つまり給食制度は子供たちを日本国民として仕立て上げる国策の一環として機能している。

しかしここで何かしらの問題があって、正常に給食が提供されなければ、子供たちの味覚は日本文化的な味覚からずれてゆく。すなわち子供たちは食文化のインストールに失敗する。

 

私は給食の滞りない提供に問題を引き起こし、食文化のインストールを阻害した罪人である。

私の味覚は、給食制度の必要なくして既に日本文化に適応していたので、給食で提供される食材ならなんでも食べることが出来た。だから日々、好き嫌いをするガキどもが避ける食材を、喜んで譲って貰っていた。そのおかげで皿に乗るおかずはいつも山盛りだった。そこには、好き嫌いをするガキどもは嫌いな食材を避けられて、私はたくさん給食が食べられるという、お互いWin-Winの構造が出来ていた。なので良いことをしている気分だった。

しかしこれは食文化インストールの阻害行為である。なぜなら人から食材を譲り貰うと、その人の食文化の育成期会を奪ってしまうことにつながるからだ。たとえば僕が好き嫌いをするガキからトマトを譲ってもらえば、そのガキはトマトを食う機会を奪われる。もしガキの家庭でもトマトが提供されなければ、そのガキがトマトを食う機会は大人になるまで滅多に訪れないだろう。トマトを食う機会がなければ、トマトの風味に慣れずに、いつまでもトマトが嫌いなままである。このようにして、ガキどもの食文化育成の機会は、ガキどもによって奪われる。

食文化の略奪行為は常習的に教室で行われていた。その影響もあってか、僕の同級生の多くは大人になっても未だに好き嫌いをしている。彼らが、大人になってから日本文化的な味覚を取り戻すには時間と労力がかかる。なぜなら大人の脳は子供とくらべて固いからである。

 

私はここに食文化泥棒の罪を自白する。食文化泥棒とは、人に適切にインストールされるはずだった食文化を、インストールさせない罪である。

当時のガキどもを代表して謝罪します。

洗濯失敗/あまりにも家族に興味なかった/大量生産失敗

8月18日(日)

無地のTシャツにソースが跳ねたから、汚れた部分に洗剤をつけて手洗いをした記憶があった。そのあとにすぐ洗濯機を回そうと思い、洗濯槽にTシャツを放り込んだところまでは覚えている。しかし洗濯機を回すのを忘れていたらしい。それに気づいたのがそれから数日後の今。この真夏に水分の含んだTシャツを暗所に放置していたらどうなるか、想像難にくない。無地のTシャツは柄モノとなった。

 

8月21日(水)

衝撃。親戚に父親の死因を訊ねたら、どうやら僕が1歳の時に自殺したらしい。少しも知らなかった。家族についてのなんとなく不思議に思っていた事象に、この新情報によってストーリーが付く。特に父の死と、母の精神病との因果関係は深いかも。幼少期の記憶を探ると、母が暗い部屋で一人泣いている情景が思い出される。その時、母の脳裏には父の死が棲んでいたんだろう。あの情景や、あの情景の母親にも。

てかこれKey作品とかにありそうな鬱設定じゃね?

 

9月4日(水)

今日は半月分の料理を作る計画だったが、完了できなかった。

計画された料理
・牛スジ煮込み(松屋風)→完
・うまトマハンバーグ→完
・豚角煮(二郎風)→完
キーマカレー→未完

料理は一度に大量に作って仕舞えば調理器具のメンテナンスが効率的になる。なぜなら料理の度にするメンテナンスを一度に集約できるから。だから我が家では大量生産を採用している。

それにしても計画がうまく行かないとゲンナリする。俺様ならこのくらい出来るだろうとたかをくくったらこのありさま。

大人になってから自分自身への過大評価で失敗する経験が多い。膨らみ続けるポジティブ精神に身体が追いついていないのか?動いてよ僕の身体!

今の一瞬以外くだらん/飲酒推奨/人の弱点は水タイプ

2024/07/20(土)

人に「人間は一瞬を生きているので、いつ死んでもいいんじゃないか?」「老人になってからでも、まだ子供でも、どのタイミングで亡くなるかはあんまり重要ではないんじゃないか?」的なことを訊ねたが、僕が思っていることをほとんど言語化できなかったので、意図が伝わっていない様子だった。定期的に、Twitterやらブログやらで思っていることを言語化する訓練をせねば。

人間の時間軸を超無理やり2分割すると、「一瞬」と「一瞬以外の時間」に分けられる。「一瞬」は今の時間の最小単位で、「一瞬以外の時間」は過去の時間のすべて。なので子供と老人が持つ時間軸の違いは「一瞬以外の時間」の長さだけ。「一瞬以外の時間」が短いのが子供で、長いのが老人。つまり人間がまだ子供の状態で亡くなると「一瞬以外の時間」が短い状態で終わりを迎えるというのが、老人になってから亡くなる場合との違い。

この、子供と老人の違いである「一瞬以外の時間」が人間にとってあんまり重要ではないんじゃないか?というのが僕が伝えたかった意図。これをマジで少しも言語化できなかった。引きこもりはTwitterやブログをサボってはいけない。

「一瞬以外の時間」は人間の脳に記憶として保存される。記憶は所詮タンパク質やら脂質やらの塊なので、パソコンのHDDやSSDのように複製が可能。しかし「一瞬」はどうだろうか?実は「一瞬」は難しすぎてよくわからん。例えば僕が「一瞬」について考えようとしても実態がつかめなさ過ぎて頭が沸騰する。みんなも沸騰すると思う。このように「一瞬」はよくわからなくて、よくわからない故に複製不可能な唯一無二の何かではないだろうか?

つまり実態が掴みやすくて複製可能な「一瞬以外の時間」ではなく、「一瞬」が持つ掴もうとしても掴めない泡みたいな唯一無二性は尊い

であるから、「一瞬」の尊ささえあればそれ以外はくだらんので、人間はいつ死んでもいいんじゃないか?

 

2024/07/24(水)

「いつも孤独に酒を気絶するまで飲んでるよ」と言ったら、病んでいるのではないかと疑われた。たぶん病んでいないと思う。とはいえ自分が病んでいるかどうかというのは、自分自身ではなかなか分かりにくいんじゃね、とも思う。もし病んでいるとしたら自身を客観視する能力が低下するような気がする。客観視できなければ、精神状態を自己判断しにくい。だからそういう意味で、病んでいないと思ってはいるが、実際に病んでいるかどうかわからない。

だけど、たぶん病んでいない。

なぜなら酒は病みとは離れたところにあると思うから。というのも、酒には二日酔いという強烈な副作用がある。気絶するほど飲んだ日の翌朝にはこの世の地獄が訪れる。酒は、酒を飲むことによる幸福と、酒を飲んで訪れる苦痛とのバランスが取れている。つまり酒を飲むことで天国と地獄の間にある現実を見失わなくなる。現実を見失わないという意味で、酒は病みとは離れたところにある。

だからむしろ、僕が酒を飲むことは、僕を現実世界へ結びつけるために大切な儀式。大酒を飲んで健全な精神を手に入れよう。

 

2024/07/31(水)

ゲリラ豪雨が降ったので喜んだ。豪雨が降るとラーメン二郎仙川店の並び列が吹き飛ぶからだ。最近の仙川店はいつも長蛇の列が伸びている。その理由は助手が愛想の良いお姉さまに変わったから。店に入るといつも「いらっしゃいませ」の声が聞こえる。そんな以前まででは考えられない心地よさが伝播して長蛇の列が形成されるようになってしまった。だから僕は並ばずに食べることが可能な瞬間をいつも狙うようになった。

店に到着すると思惑通り、列が吹き飛んでいた。やはり人間の弱点は水である。とはいえ席は満席だったので庇の下で、アルミサッシのガラスに付着した水滴を眺めながら席が空くのを待っていた。水滴は大小さまざまで、形もそれぞれ違っている。それぞれの水滴が店内の朱色のカウンターと茶色い壁、黒い人影を、歪ませて映している。角度を変えて覗くと水滴の中の景色が動いて面白い。普段気にも留めないくだらないものを見ていたら席が空いて、美味しく麺を啜った。満腹で店を出た。

牧場のYoutubeを見た/哺乳類展に行った/高尾山に行ったⅡ/推しネット番組の感想

 

🏇

馬肉はお好き?僕はお肉が好きなので馬肉も好き。

競走馬生産牧場の経営者が運営するyoutubeチャンネルに出会った。数年前に投稿された、牧場を借りるところから出発した最初の動画から、現在の最新動画まで追いついた。仔馬が誕生したり亡くなったり繁殖牝馬を処分したり、時の流れとともに命が明滅する映像体験をした。

そんな中、牧場主が馬を経済動物と割り切りながら倫理の狭間で藻掻いている姿を見た。馬は様々な経済圏を回しているから経済動物という呼称は的を射ている。だが馬は同時に愛玩的な要素も持つ。愛玩動物である犬や猫が家族として扱われるように、馬にもそのような側面があると思う。

家族に対して合理的ではない費用を費やしがちな我々の文化は、経済的合理性とは相性が悪い。実際に、ファンによって牧場へ高価過ぎる青草という合理的でない贈り物がされ、その扱いに困っている様子を見る事ができる*1

馬はややこしい経済動物である。

牧場主はある動画の中で「馬を供養の為に食べる」と言った。味覚に集中して馬肉を食べる為には、家族を抵抗なく食べられるくらい、もうちょっと未来の文化レベルが人類には必要だ。

 

2024/05/23(木)

非現実的な妄想をして暮らすのにも飽きたので、極めて現実的な生物を見に国立科学博物館の哺乳類展に行った。

一人でじっくり見ていたら3時間ほど時間が経っていた。いつも特別展は知人を誘って行くことが多いのだが、その場合はあっさりとした鑑賞で、1時間経つか経たないかくらいで館を出る。だからよくもまあ一人で3時間も見れるもんだなあと驚いた。

僕は人と一緒にいると弱体化する覚えがある。おそらく人といる状況で活発になる何かに脳の計算能力が使われて、他のあらゆることがおろそかになるのだろう。まっすぐ歩けなくなったり、周囲の異変に気づけなくなる事をよく指摘される。そういえばオンラインゲームでも一人で遊ぶ時と比べて成績が悪くなっていた。

いったい脳の計算能力は何に使われているのだろう。最近の僕の推理によると、仮想通貨のマイニングに使われているんじゃないかと睨んでいる。頭蓋骨の貯金箱を割る瞬間が楽しみ。

 

2024/06/19(水)

都心から西の方角を見ると巨大なかき氷屋さんがそびえたっていたので、登った。

稲荷山ルートに挑んだが、前回*2登った6号路のほうが道が複雑で険しく、好みだった。こちらは木材で舗装されている箇所が多い道をひたすら登り続ける単調なルートだった。

山頂にたどり着いてかき氷を探したがどこにも売っていなかった。前回食べた美味しいかき氷を楽しみにしていたから残念だった。だけど、もしかき氷にありつけたとしても疲労感が前回の半分くらいだったので、その分だけかき氷の美味しさは落ちていただろう。疲労せずに登れた理由はルートのせいもあるが、それよりも日々の運動で体力がついていたからだと思う。

体力をつけると楽に登頂できるが、楽に登頂するとかき氷がマズくなるジレンマがある。日々の運動による苦痛は、将来の苦痛の前借りであるという視点を、ネガティブな意味で発見できた。

とにかく標高599mのかき氷屋さんでかき氷が食べられなくて残念だった。

妥協のとろろそばを食べてリフトで下山した。

 

2024/07/14(日)

この日放送されたABEMAの番組『東出&ひろゆき置いてきた』*3は高橋Pの創作家気質*4により編集が間に合わず、代わりに東出・ひろゆき・高橋の雑談生放送が行われた。この生放送にゲストとして登場したペルー人オスカルの生活状況を知った東出は「クラウドファンディングで援助できないか」と持ち掛けた。

この「目前だけの問題を金で解決する」案は、単純かつ複雑でもある。僕なら複雑な部分に躓くので言語化に時間がかかる。これをするりと言ってのける姿を見た時、東出がこれまで番組で見せた魅力的なしぐさや配慮、複雑な心理描写の言語化は、感情を現実世界に反映させる能力の高さによって発揮されているのではないかと気づいた。東出は、想起した感情を現実世界へと反映させる回路がきれいに整理されているのだろう。僕の回路はPC周りの配線に代表されるように混線しているから、その特殊能力が魅力的に映る。

東出のクラファン発言も、混線によるノイズに邪魔されることなく感情が流れ出たのだと思う。やがてこの東出の案はひろゆきと高橋によって咀嚼されて、オスカルを出演者とした動画を制作する案に修正された。

ところで『東出&ひろゆき置いてきた』の編集が間に合わなかった理由の一つに、夜なべで寿司を待機し続けた謎放送*5がある。そこで成田が言った「特定の何かに依存せずに番組を作るべき」*6は資金的な意味だけでなく、感情的な意味としても解釈できそうだ。というのも、オスカルの生活状況とそれに対する東出の発言を源流とした一連の感情の流れは、スポンサーが番組の生殺与奪を握っている状況くらい、抵抗できないほどの強さに感じたからだ。オスカルの動画を制作する案は、この場合、高橋の独立した感情に依るものだろうか?それとも生放送中に流れ出した強烈な感情に依るものだろうか?

花粉症の発見/ハンバーグ惑星/私と他人の老化/野菜は美味しいから食う

2024/03/16(土)

好きな馬が大きいレースの前哨戦に出走するので競馬場で日向ぼっこをして過ごしていた。芝にビニールシートを敷いて寝転がっていた。快晴で適温だったが、花粉による嫌がらせが日向ぼっこを台無しにした。

花粉が嫌な奴だなんて思いもよらなかった。というのも、最近まで自分が花粉症であることに無自覚だったからだ。

煙草を辞めてから2年3か月が過ぎた。煙草のない生活が始まると、喫煙していた頃には気づけない大発見をする。その大発見の一つが花粉症だ。強烈に有害な副流煙は鼻に季節を問わずいつも鼻炎をもたらしていたので、花粉は副流煙の強烈な存在感に隠されていた。だから今まで鼻炎が花粉のせいだなんて思いもよらなかった。

仔馬の頃から応援しているその馬が勝利した時に流れた涙は当然花粉によるものであった。

 

2024/03/31(日)

豆腐とひき肉のコンビネーションは家計に余裕をもたらす。いつでも豆腐ハンバーグのある明るい人生設計。その夢のためには豆腐ハンバーグの大量生産と長期保存が必要だ。豆腐ハンバーグ大作戦が始動した。

長期保存段階で問題が生じた。練り上げられたハンバーグに生じた皺にサランラップが巻き込まれたまま冷凍されてしまった。表面に生じた皺はラップを噛んで離さない。

よく見ると練り上げられた豆腐ハンバーグは惑星みたいだ。表面の皺が地表のクレーターに見える。

惑星の認識が少しでもあれば回避できたアクシデントだった。

 

2024/04/19(金)

知人に散髪してもらいながら老化について話した。

我々は自分自身の老化には気づき難い。なぜなら我々は定期的に自分の姿を鏡で見ており、鏡で自分の姿を見るたびにわずかな老いを認識して自分の像をアップデートするからだ。高頻度で自分の像が最新版にアップデートされるのに対して、他人の像はアップデートされる頻度が少ない。だから他人の像のアップデートでは一度に大量のデータを受信することになる。すると認識の変化が急激に行われるため、他人の老化は気づきやすく、自分の老化は気づき難くなる。

たまには自分が写っている古い写真を見返すことによって、老いてゆく自分を嚙み締めようと思った。

 

2024/05/16(木)

野菜は高価だし嵩が増える。野菜に課金するよりもその分のお金で肉を買ったほうが栄養になるし、野菜で増える嵩の分を肉にしたほうが一度の調理でたくさんの肉を食べることが出来る。このように野菜は料理の大量生産には邪魔な存在だと思い立ち、野菜を除いて肉だけでいろいろな料理を生産した。

・・・美味しくない。野菜は調味料の役割を担っていた。野菜を栄養として見るのではなく、調味料として料理に使用する方針に変わった。

悪いインターネットで流行しているホリエモンの迷言「野菜は美味しいから食うんだよ」に対する解像度が深まった。

ニンジン

 

カップルの博愛に与る/プロテインパンケーキ/出生のヒミツ/ダート馬3頭

2024/02/23(金)(天皇誕生日)

「ポケットに入らないモノは持てない」という症状を発症したので、雨の中傘をささずに出かけた。上野の博物館に着いた頃には雨は勢いを増しており、雨宿り目的の邪な群衆により長蛇の列が発生していた。

3列で整理された列に並んだところ、隣は相合傘のカップルだった。品のある会話だったので恐らく雨宿り目的の邪な群衆の一部ではないだろう。そういう偏見を持って会話を盗み聞きしていた。

列を見渡しても傘をさしていない人は見つからなかった。僕自身は雨に濡れてもどうってことないのだが、カップルは気にしたらしい。相合傘が僕の方に徐々に寄せられて来ている気がした。僕は滔々と続く会話を盗みながら髪を掻き上げる仕草をして過ごした。左肩だけ雨に濡れずに済んだ。

 

2024/03/03(日)

数日前、知人に日々の献立を訊かれたので食生活を思い浮かべると、肉を焼くか煮るかしかしていない実態に気づいた。肉はタンパク質を多く摂るために積極的に食べているが、家計を圧迫する。さらに鳥または豚ばかり食べていると飽きが来る。こんなきっかけで、タンパク質に支出する費用の削減と、タンパク質の種類を増やすという2つの野望を抱いた。

野望を叶えるべく、時宜よく訪れたAmazonセールに乗じてミキサーとプロテインを購入し、プロテイン入りのパンケーキを試作した。調理法はパンケーキの材料にプロテインを混ぜ、炊飯器で炊くだけ。食品メーカーのサイトやレシピ投稿サイトを参照しながら自分の調理環境に適合するようにレシピを練った。試作段階で将来性を感じたので、この方向へ技術を磨いていこうという指針ができた。

試作プロテインパンケーキ

 

2024/03/06(水)

電子化された世の中、コンビニで戸籍謄本を取得した。戸籍謄本には出生に関する事項が記載されている欄があるが、そこに記載されていた僕の出生地が、想定していた市区町村ではなくその隣にある市区町村だった。記載されていた市区町村のほうが栄えているので偉い身分に成りあがった気分だったが、調べたら単に産まれた病院の所在地らしいので昇進は見送りとなった。

出生の欄には出生地の他にも出生日や届出日、届出人が記載されている。そこで届出日が法定期限ギリギリだったことは子供にバレるという教訓を得た。また、届出人は父だった。父は既に亡くなっているという情報だけ知っていたのでいつ亡くなったかは不明だったが、これで生後に亡くなったと判明した。微塵も記憶に父はいない。

 

🏇

セラフィックコール、デルマソトガケ、ヤマニンウルス、同世代のライバル3頭は一度もお互いに交戦せぬまま対古馬戦線へ進んだ。3歳ダート戦線で名を挙げていたそれぞれの勢いは歴戦の古馬を相手にしても衰えず、特にデルマソトガケはダート競争の本場アメリカで行われた最高峰のレースBreeders' Cup Classicで2着に入線する快挙を成した。ヤマニンウルスも敗北を知らぬまま涼しい顔で古馬を倒す。

とはいえデルマソトガケは海外を走り、ヤマニンウルスは引きこもりだ。なので二頭の国内重賞レース挑戦は実現せず、その実力が広く周知されることはなかった。そんな2頭に対してセラフィックコールは着実に条件戦を勝利し、みやこS(GⅢ)を勝ち、無敗5連勝の看板を背負ってチャンピオンズC(GⅠ)へ挑戦した。しかし結果は目も当てられぬ惨敗。3頭のライバルで先に崩れ去ったのはセラフィックコールだった。

その後デルマソトガケは中東で敗北を期し、そこで日本の古馬にも先着された。崩れ行くライバル達を知るや知らずやヤマニンウルスは表舞台に出てこない。

中東での敗北を見届けかつての彼らの栄光に思いを馳せていた、まさにその日、日本の阪神競馬場ではセラフィックコールの弟が懸命に走っていた。7番人気の評判を覆しすみれS(L)を勝利したサンライズアースは皐月賞(GⅠ)を目指し歩みを進めている。

軽量化と沼男

【軽量化】

ジブリ映画「風立ちぬ」で庵野秀明演じる堀越二郎が「機関銃を乗せなければ軽くなるんだけどね」というジョークを言って、その場にいる技術者一同を笑わせるシーンがあった。戦闘機の設計で機関銃を外すという元も子もないジョークなんだけど、案外、今まで重要だと思っていたものを捨て去るような奇抜な発想が役に立つ事がある。

 

そこで奇抜にも、過去の記憶を捨て去ることによる自分の軽量化を思いついた。

 

自分が過去に記憶してきたことは膨大で、その中には後ろめたいものも含まれる。だから過去の記憶全体については責任が持てない。しかし今の意識は、刻の流れの最前線のほんの僅かな一瞬なので、現行で後ろめたい事をしていない限りは後ろめたい事は何もない。

つまり過去の記憶を捨て去れば、軽量な今の意識だけにのみ責任を持ちさえすれば良いので、楽。

 

【沼男】

ある男がハイキングに出かける。道中、この男は不運にも沼のそばで、突然雷に打たれて死んでしまう。その時、もうひとつ別の雷が、すぐそばの沼へと落ちた。なんという偶然か、この落雷は沼の汚泥と化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまう。

この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。スワンプマンは原子レベルで、死ぬ直前の男と全く同一の構造を呈しており、見かけも全く同一である。もちろん脳の状態(落雷によって死んだ男の生前の脳の状態)も完全なるコピーであることから、記憶も知識も全く同一であるように見える。沼を後にしたスワンプマンは、死ぬ直前の男の姿でスタスタと街に帰っていく。そして死んだ男がかつて住んでいた部屋のドアを開け、死んだ男の家族に電話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みふけりながら、眠りにつく。そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。

スワンプマン - Wikipedia

 

Donald Herbert Davidson(1917-2003)のスワンプマン(Swampman)という思考実験では、自分の完全なコピーは自分なのか?という疑問が投げかけられる。自分が完全に再現されたスワンプマンは、雷に打たれて死んだ自分と同一なのだろうか?

 

スワンプマンは自分の完全なコピーなので、記憶は雷に打たれた自分と完全に一致する。なので「過去の記憶によって自分が構成される」と考えるのならば、スワンプマンは自分と同一。

対して「刻の流れの最前線のほんのわずかな一瞬の意識によって自分が構成される」と考えれば、スワンプマンは自分と同一ではない。何故なら自分の意識は雷に打たれて既に絶たれているから。

 

つまり「スワンプマンは自分と同一ではない」という考え方は、「自分」の正体は「過去の記憶」ではなく「今の意識」であると仮定する事によって出来るようになる。

 

先ほどの【軽量化】の案は、この「スワンプマンは自分と同一ではない」とする考え方と共通する。どちらも過去の記憶には目を向けず、今の意識にだけ焦点を当てているから。なので自分を軽量化するなら、スワンプマンの思考実験においても【軽量化】と共通した考え方を信じなければ、一貫性が無い。よって自分を軽量化するには、筋を通すために、「自分とは何なのか?」という難解な問いにおいて一方向に舵を切らねばならなくなった。つまり自分とは今の意識であり、過去の記憶ではない。

 

こうして、今の意識こそが自分の正体であると信じる事になった。昨日の自分は他人である。頑張って信じよう。

 

と、決意を固めた次の瞬間、雷に打たれて死亡した。