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馬肉はお好き?僕はお肉が好きなので馬肉も好き。
競走馬生産牧場の経営者が運営するyoutubeチャンネルに出会った。数年前に投稿された、牧場を借りるところから出発した最初の動画から、現在の最新動画まで追いついた。仔馬が誕生したり亡くなったり繁殖牝馬を処分したり、時の流れとともに命が明滅する映像体験をした。
そんな中、牧場主が馬を経済動物と割り切りながら倫理の狭間で藻掻いている姿を見た。馬は様々な経済圏を回しているから経済動物という呼称は的を射ている。だが馬は同時に愛玩的な要素も持つ。愛玩動物である犬や猫が家族として扱われるように、馬にもそのような側面があると思う。
家族に対して合理的ではない費用を費やしがちな我々の文化は、経済的合理性とは相性が悪い。実際に、ファンによって牧場へ高価過ぎる青草という合理的でない贈り物がされ、その扱いに困っている様子を見る事ができる*1。
馬はややこしい経済動物である。
牧場主はある動画の中で「馬を供養の為に食べる」と言った。味覚に集中して馬肉を食べる為には、家族を抵抗なく食べられるくらい、もうちょっと未来の文化レベルが人類には必要だ。
2024/05/23(木)
非現実的な妄想をして暮らすのにも飽きたので、極めて現実的な生物を見に国立科学博物館の哺乳類展に行った。
一人でじっくり見ていたら3時間ほど時間が経っていた。いつも特別展は知人を誘って行くことが多いのだが、その場合はあっさりとした鑑賞で、1時間経つか経たないかくらいで館を出る。だからよくもまあ一人で3時間も見れるもんだなあと驚いた。
僕は人と一緒にいると弱体化する覚えがある。おそらく人といる状況で活発になる何かに脳の計算能力が使われて、他のあらゆることがおろそかになるのだろう。まっすぐ歩けなくなったり、周囲の異変に気づけなくなる事をよく指摘される。そういえばオンラインゲームでも一人で遊ぶ時と比べて成績が悪くなっていた。
いったい脳の計算能力は何に使われているのだろう。最近の僕の推理によると、仮想通貨のマイニングに使われているんじゃないかと睨んでいる。頭蓋骨の貯金箱を割る瞬間が楽しみ。
2024/06/19(水)
都心から西の方角を見ると巨大なかき氷屋さんがそびえたっていたので、登った。
稲荷山ルートに挑んだが、前回*2登った6号路のほうが道が複雑で険しく、好みだった。こちらは木材で舗装されている箇所が多い道をひたすら登り続ける単調なルートだった。
山頂にたどり着いてかき氷を探したがどこにも売っていなかった。前回食べた美味しいかき氷を楽しみにしていたから残念だった。だけど、もしかき氷にありつけたとしても疲労感が前回の半分くらいだったので、その分だけかき氷の美味しさは落ちていただろう。疲労せずに登れた理由はルートのせいもあるが、それよりも日々の運動で体力がついていたからだと思う。
体力をつけると楽に登頂できるが、楽に登頂するとかき氷がマズくなるジレンマがある。日々の運動による苦痛は、将来の苦痛の前借りであるという視点を、ネガティブな意味で発見できた。
とにかく標高599mのかき氷屋さんでかき氷が食べられなくて残念だった。
妥協のとろろそばを食べてリフトで下山した。
2024/07/14(日)
この日放送されたABEMAの番組『東出&ひろゆき置いてきた』*3は高橋Pの創作家気質*4により編集が間に合わず、代わりに東出・ひろゆき・高橋の雑談生放送が行われた。この生放送にゲストとして登場したペルー人オスカルの生活状況を知った東出は「クラウドファンディングで援助できないか」と持ち掛けた。
この「目前だけの問題を金で解決する」案は、単純かつ複雑でもある。僕なら複雑な部分に躓くので言語化に時間がかかる。これをするりと言ってのける姿を見た時、東出がこれまで番組で見せた魅力的なしぐさや配慮、複雑な心理描写の言語化は、感情を現実世界に反映させる能力の高さによって発揮されているのではないかと気づいた。東出は、想起した感情を現実世界へと反映させる回路がきれいに整理されているのだろう。僕の回路はPC周りの配線に代表されるように混線しているから、その特殊能力が魅力的に映る。
東出のクラファン発言も、混線によるノイズに邪魔されることなく感情が流れ出たのだと思う。やがてこの東出の案はひろゆきと高橋によって咀嚼されて、オスカルを出演者とした動画を制作する案に修正された。
ところで『東出&ひろゆき置いてきた』の編集が間に合わなかった理由の一つに、夜なべで寿司を待機し続けた謎放送*5がある。そこで成田が言った「特定の何かに依存せずに番組を作るべき」*6は資金的な意味だけでなく、感情的な意味としても解釈できそうだ。というのも、オスカルの生活状況とそれに対する東出の発言を源流とした一連の感情の流れは、スポンサーが番組の生殺与奪を握っている状況くらい、抵抗できないほどの強さに感じたからだ。オスカルの動画を制作する案は、この場合、高橋の独立した感情に依るものだろうか?それとも生放送中に流れ出した強烈な感情に依るものだろうか?