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せかいはせーりつされたことがらのそーたいである

令和元年11月22日

人は人の気持ちを理解しようとするが人は人の気持ちを理解できない。

それは何故か。

私はあなたになれないしあなたは私になれないからだ。

 

私は共感性羞恥を他者に感じられる事、又は他者が他者に共感性羞恥を感じられている場面を見る事が心底嫌いだ。

人は人の気持ちを理解できないのにもかかわらず虚構の理解を得られ勝手に解釈される図々しさが嫌いだ。

土足で人の心の中に入り込み事実とは異なる感情を掘り起こされ満足される。

憎たらしい。

故に私は共感性羞恥が嫌いだ。

 

例えば、街中で陰茎を露出するマニアにとって街中で陰茎を露出する事は全くもって恥ではない。お茶の子さいさいである。

にもかかわらず共感性羞恥を感じる人は街中で陰茎を露出する人を見たときに共感性羞恥によって恥ずかしいと感じる。

この場合、街中で陰茎を露出するマニアが陰茎を露出して羞恥を感じていないのだから、羞恥を感じているのは一方だけである。これでは全く共感が出来ていない。共感している気になっている人が1人居るだけである。

共感性羞恥は「共感した気になっている羞恥」である。

共感性羞恥を持つ人は、マニアの心の中に土足で上がり込み羞恥という虚構の感情を創り上げ自身に持ち帰って勝手に消化するのだ。マニアは「どこの馬の骨かもわからない露出の何たるかを一ミリも分かっていない者にいったい俺の何がわかるのだ」と言いたいだろう。

共感性羞恥を持つ人は露出に関しての知識、見聞、技能、技術、全てにおいて完全に劣っているのにもかかわらず羞恥を感じる。何という図々しさだろうか。憎たらしい。

 

共感性羞恥を感じる人は、人は人の気持ちを理解し得ない事を知らないのだ。

現代社会の中、この大前提を知らない人は多く存在する。

ましてや人だけではなく動物(特に馬)を対象に気持ちを理解した気になっている重症者も存在する。

 

今後私がどんな奇行に走っても放っておいてほしい。温かい目で見守ってほしい。どうぞよろしく(露出を始めると言う意味ではない)。