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せかいはせーりつされたことがらのそーたいである

可哀そうなのは抜けない。

 先日の事象による心の汚染物質が未だに残留している。連日、見るに堪えがたい怪文を投稿する様は狂人と勘違いされる原因になるから可能な限り避けたいのだが、僕は心に放射性廃棄物を抱えている時にしかブログを書くモチベがない為に、ここに清らかな文章が掲載されることはまず無いだろう。

 先日僕は"脳が破壊された"というミームに照らして放射性廃棄物を表現したのだが、より一層適切なのは"可哀そうなのは抜けない"であることに気づいたのでそれについて書いていく。

(※先日の記事は削除済み)

 日本の匿名インターネット世界には"可哀そうなのは抜けない"という言葉通りで何ら捻りもないミームが存在する。かくいう僕も可哀そうなのは抜けない。抜けないどころかあまりにも女の子が可哀そうな場合は不快な動悸を催すかもしれない。

 可哀そうという感情は例えば僕が相手の状況に置き換わった時にどう感じるかという様な”共感”によって引き起こされる。これは人に共感されたく無いが為にコミュニケーションを取ることが怖くなってしまった僕が言うんだから、おそらく3割くらいは合っていると思う。なのでこれからはその体で話を進めていく。

 家畜に対する共感が少ないのに対して女の子に対する共感が大いにあるのは、これは当たり前すぎて失礼だが、家畜よりも女の子の方が僕に近い生き物だからだ。例えば食肉生産の工程である屠畜に対しては可哀そうと思わないが、女の子が鮨詰めの満員電車に揺られながら通勤・通学する姿はちょっとだけ可哀そうだなと思う。しかし女の子よりも僕に近い生き物であるはずの男の子が午前8時頃の京王線特急新宿行きに乗っていたとして、それが可哀そうと思うだろうか?まったく思わない。だからもしかしたら生き物として近すぎたり遠すぎたりするのはダメで、程よい近さが可哀そうな感情を引き起こす要因なんじゃないか?女の子が生き物として程よく僕に近いから、程よい共感によって、可哀そうと思うんじゃないか?

 僕はよっぽどでない限りは嫌なことがあっても良いので、性別が同じ故に僕との共感が大いにある男の子は、きっと僕と同じように自身に嫌なことがあっても良いと思っているだろうと推定する。対して僕と女の子は、性別が違う故に僕と男の子よりも比較的少ない共感しか出来ないから、嫌なことがあると良くない可能性が浮上してくる。だからもしかしたら嫌なことがあると良くないかもしれない女の子には嫌なことをしてほしくない。嫌なことが良くない女の子が嫌なことの代名詞である満員電車に乗るのはちょっと可哀そう。男の子はほとんど僕のようなものなので、駅員に押し込められて背広のおじさんたちの胸と背中の間でミンチにされたとしても可哀そうじゃない。

 僕は対象との共感が大きいほど僕に置き換えて考えることが出来、小さければ出来ない。僕はどのようになっても良いので、僕との共感が大いにある人もどのようになっても良い。しかし共感が少ない人はどのようになっても良くないかもしれない。だから共感が少ない女の子には嫌そうなことをしてほしくない。嫌そうなことをしてほしくないから、嫌そうなことをしている女の子は可哀そうだから抜けない。