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せかいはせーりつされたことがらのそーたいである

人間が怖い

俺以外の人間はそれぞれが各々違った規律をいくつか持っていて、それらの規律が垣間見え、俺がそれにそぐわないと認識したとき、俺は圧迫感を感じる。この圧迫感が非常に嫌いだから、俺は人間が怖い。正確には、俺にそぐわない規律を持っている人間が怖い。しかし、だれがどのような人間かは一面を見ただけではわからないので、結局、無差別に人間が怖い。(人の全面を見ることは理論上不可能なので、結局、どうしようもなく、無差別に人間が怖い。)

そして俺は、ものすごくストイックなので、厳しい規律を持っているため、俺以外の人間も俺が怖い。俺と俺以外の人間は相思相愛なのである。

 

 

 

オシッコはトイレでしなければならない。

多くの、あらゆる苦悩は自分の中に設定された規則によって引き起こされている。

たとえば、自分の頭が悪いことに対する「つらい」「恥ずかしい」「いやだ」という気持ちは、「自分は頭が良くなくてはいけない」「周りの人に良く思われなければいけない」等の、自分の中に設定された規則に違反することによって発生している。これらの苦悩は、その原因に対応する規則を取り除くことによって消える。

 

自分の中に設定された規則は、先天的な規則と、後天的な規則に区分される。

 

後天的な規則は自分の遺伝を正しく反映しているとは言えない。

たぶん、多くの後天的な規則は少年時代のコミュニティの中で形成されると思う。例えばクラスでのいじめや、先生からの叱責を回避するために、規則が自分の中に創り出される。そうやって創られた規則は、主に環境的な要因によって創られている。

対して先天的な規則は倫理的なものである。たとえば「子供を殺してはいけない」とか「近親相姦をしてはいけない」とか、生物の機能として人に生まれながら備わっていそうな規則である。つまり先天的な規則は遺伝によって創られている。

まとめると、環境が後天的な規則を創り、遺伝が先天的な規則を創るので、後天的な規則は自分の遺伝を正しく反映していない。

 

生物が遺伝のバトンをつなげて繁栄していくものだとすれば、人類は自分の遺伝を正しく表示することによって円滑な繁栄を行うことができる。(※要検討)

 

後天的な規則によって自分の遺伝が歪められて表示されることは、人類の円滑な繁栄を阻害している。(学説では、隠された性格が垣間見えたとき、より一層萌えるという反論がある)(特に現代では自由恋愛が盛んなので重要)

 

後天的な規則を取り除くことによって、あらゆる苦悩から解放されるだけではなく、その上、人類の繁栄に供与することができる。

 

きっと、あなたが大事に抱えているその規則は、魑魅魍魎が跋扈する小学校や中学校を無事に抜け出す為にはたいへん役に立ったでしょうが、現在それは本当に必要でしょうか?

あなた自身と、人類の未来のために、それを捨て去ってみる気はありませんか?

さあ、あなたの傍らにある、空のペットポトルを手に取りましょう。

幸福が怖い

これは「まんじゅうこわい」のようなとんちの利いた話ではなくて、本当に怖い物の話である。なぜ幸福が怖いのか説明する。不幸な時に小さな苦痛、例えばアイスバケツチャレンジを行うのは容易い。しかし幸福な時のアイスバケツチャレンジは不幸な時に比べて行うのを躊躇する。これは不幸な時に比べて幸福な時はアイスバケツチャレンジによる苦痛の落差が大きいからである。つまり幸福であれば幸福であるほど苦痛に対する耐性が弱くなるのだ。幸福な時は苦痛が怖い。よって私は幸福が怖い。

いま私は2008年のアニメ「CLANNAD AFTER STORY」を見ている途中だ。そして動悸と冷や汗がすごい。これはまごうことなく私が幸福を恐れているからだ。私は突然、幸福の渦中に投げ込まれてしまった。恐怖が私の体調に現れるほど今の私は幸福が怖い。もし、この劇中の幸せな家庭に亀裂が走ってしまったら私の精神は崩れ落ちるだろう。そんなこと想像もしたくない。本当に怖い。

私は一話一話、おそるおそる再生しているが、ついに手が止まってしまった。この再生ボタンを押してしまったらこの幸福な家庭に何か災いが起きるのではないか、不安で、もうこれ以上話を進めたくない。永遠に現在で時を止めてしまいたい。私には恐怖に打ち勝つ精神がないのだ。不確定な未来へ足を一歩進められない。闇に包まれた一寸先が怖すぎる。

頭をバカにして勢いで再生してしまおうと酒も飲んだ。しかしそれでもごまかしきれない恐怖が私を襲う。

こんなにも幸福は怖いのに、いったいどういう神経をしていたら幸福になろうとするんだ。しかし私は次の話の再生ボタンを押さねばならない。なぜなら私の神経はイカれているから。

みんな、俺は行ってくる。

【以下追伸2022/02/06】

アイスバケツチャレンジの例が難解だと思ったので、私が経験の中で暫定的に捉えている、この世界を構成する要素である「不幸・幸福・苦痛・快楽」について記述し、これを補足説明とする。「不幸」と対になる要素が「幸福」である。「苦痛」と対になる要素が「快楽」である。「不幸・幸福」は長期的な作用をもたらす。「苦痛・快楽」は短期的な作用をもたらす。連続した短期的な作用は、長期的な作用になる。長期的な作用は、連続した短期的な作用に分解できる。

・「CLANNAD AFTER STORY」には心情を揺さぶられたが、その要因は主に恐怖が占めている。私は持ち上げて落とすシナリオ構成よりも、落して持ち上げるほうが好きだ。絶望の淵まで真っ逆さまに落ち、地獄の底を這いずることにより私は初めて恐怖を忘れ、安心するのだ。

・とはいうものの本作は名作である。きっと貴方が視聴しても人生の時間が無駄になることは無いだろう。前作の「CLANNAD」を視聴しないと訳が分からないので注意。

中山競馬場の汚い喫煙所で煙草を吸う汚いジジイ

コンピューターを利用した論理的で美しい統計による競馬予想は、従来の人間の感覚に頼った競馬予想よりも高い精度を発揮しているのだろうか。多くの主要な競馬予想に用いる要因について、前者は後者を置き去りにするほど高度な研究が進められてきた。コンピューターは人間よりも多くの情報を、人間が持つバイアスを取り除き、素早く、計算ができる。故に私は現代の競馬においてコンピューターを使わない競馬予想は時代遅れで、精度が劣っていると考える。

 

しかしあらゆる点で感覚による競馬予想が劣っているわけではない。コンピューターを使えない人間は、使える人間に比べて年齢が老いている傾向がある。つまり彼らは人生に費やしてきた時間はもちろん、競馬に費やしてきた時間においても優っている人が多いのだ。

 

競馬予想では予想に用いる要因をどのような切り口で、どのように解釈するかが非常に重要である。たとえば騎手という要因を、騎乗している騎手によって大きく勝率が異なるという切り口で見て、騎手は競走馬の能力に大きな影響を与えると解釈するのか、能力の高い馬に評判が良い騎手が乗っているのか、と解釈するのでは予想結果に雲泥の差が出る。もちろん競馬は我々が生きている世界の構造の基で成り立っているので、どう解釈するのかの正解、真実は存在する。しかし、たとえコンピューターを使った競馬予想でもそのアルゴリズム構築は人間が行うので、ここで真実から大きくかけ離れた解釈をしてしまった場合、的外れな計算による誤った予想をしてしまう可能性が高い。その点では人よりも多くの時間を生き、多くの時間を競馬に費やしてきた彼らは多くの知識を蓄えているので、人生や競馬の経験が浅い人間よりも真実に近い解釈をしうる。

 

また、彼らはあらゆる要因に切り口を入れることができる。たとえば気温や湿度などの気象条件という要因にメスを入れるためには、それらが馬にどのような影響をもたらすのかという知識がなければ難しい。大衆によって多く語られてきた要因 だけを組み込んだ競馬予想では、いかに正確にそれらを計算して予想しても、それらの要因はすでに大衆によってオッズに盛り込まれているので、秀でた回収率が期待できる馬を選択することができない。一見荒唐無稽にみえる、大衆によって語られていない要因にメスを入れることが競馬予想では非常に重要であり、それらにメスを入れるためには彼らがもつ多くのニッチな知識が必要なのである。

 

一か月ぶりに外へ出たら、急性ビタミンD中毒になった。

〈まず俺はビタミンD中毒になっていない。主題は誇張である。ビタミンD中毒はカルシウム濃度が高くなって危ない病気らしい。〉

 

俺は酸味の利いた飲料を好むので、水で希釈して飲む形式の黒酢飲料が販売されているという情報を目にした時、ついに玄関口の重い扉を開いた。

 

時は令和×年。現在が令和何年かを知らない俺を、天から降りし無数の紫外線が貫いた。

 

眩しく光る太陽光の灼熱が、雪原の如き純白の肌を痛めつけた。

 

俺の居住している賃貸は、誇張して言うと、日照権が侵害されているので、そこに籠る俺の肌は太陽光の受け入れ方を既に忘れていた。

 

栄養素ビタミンDとは無縁だった俺の体内に、ビタミンDが急造され、駆け巡る。

 

思えば今朝の関東地方に架かったらしい大きな虹は、天候がもたらす俺の身への影響を知らせる警鐘だったのかもしれない。

 

俺の体は耐え切れず、ついに発火し、灰となった。

 

猛暑の東京に吹く一陣の風。

 

その涼みの中に、俺の魂の一片が流動しているかもしれない。

 

2021/07/21

 

言葉には多種多様の解釈が存在するので厳密にいうと私の意志とは異なった解釈をされる可能性がほぼ100%であり(例えば私が想起する「りんご」と他人に伝わる「りんご」にはずれがある。)、どんな親密な他人でも私の意志と全く同一の意志を伝えることは不可能である。

 

地球に住む約80億人の人間は遺伝子や生育環境がそれぞれ異なっているので、言葉に対するイメージや意味等のずれがどのような人間の間にも発生する。

 

我々は言葉をつかって互いに微小にずれている意志を伝え合いながら社会を形成している。

 

しかし、お互いに遺伝子や生育環境が大きく異なった人間との間に起こるずれの大きさは微小では済まない場合があるだろう。

 

この時、私の意志を相手に伝えることは難しくなる。

 

ではどのようにして私の意志を他人に伝えればよいのだろうか。

 

 

①諦める

そもそも意志を他人に伝えようとしなければ言葉の解釈の齟齬が発生することはない。他人に依拠しない、私だけで生きて行ける環境に身を置くべし。

 

②時間をかけて伝え続ける

たとえ誤った意思が伝わるとしても、私の伝えたい意志を曲げずに継続して言葉を使っていけばやがて雪が溶ける。

 

➂相手に伝わる言葉を模索する

相手にどのような言葉を使えば意志が適切に伝わるのかはわからない。私の経験を振り絞って、相手に関する様々な要因から相手がどのような人間なのかを予測し、それに合わせて無数にある語彙から選び抜かなければならない。

 

④諦める(極)

この世界には私以外の人間が存在しない。

 

競馬のゲームがガチで苦しい

万国共通、世界の真理、一寸の狂いもない真実を示すことができる記号が「数字」である。

それはあらゆるものの核をど真ん中から一閃する、だれがどう見ても変わらなく、完全なはずの真実を示すことができる。

(たとえば「りんご」はりんごを示さない場合があるが、「1」は必ず1を示す)

しかしそんな無欠で完璧な真実も、人間の感情という忌まわしいフィルターを通ると、哀れにも簡単に歪められてしまう。

一つの真実しか内包していないものを、人間の脳は多種多様の事態を創り出して解釈し、飲み込んでしまう。

まるで真実を掻き毟りぐちゃぐちゃにするバケモノが脳の中に存在するかのように。

そう、我々は自身の頭蓋骨の中に、とんでもないバグポケモンを飼っているのだ。

 

しかもそのバグポケモンは人によってタイプ相性や覚えている技が異なっており、図鑑ナンバーも1~9800兆くらいあるほど多様だ。(これは非常に厄介なことで、くさ/はがねタイプのバグポケモンを飼っている人は「ほのお」という真実を4倍にしてしてしまい、逆にみず/いわタイプのバグポケモンを飼っている人は同じ真実を1/4程度で済ませてしまう。)

 

きっと私が今遊んでいる競馬ゲームを作った人の頭蓋骨の中には、きっと私の頭蓋骨の中に住まうバグポケモンのタイプ相性と非常に異なったタイプ相性をしたバグポケモンが住んでいるだろう。

そう思ったのは、私が認識している情報に基づいた入力に対する競馬ゲームの応答に、食い違いを感じることが多々あるからだ。

この、バグポケモンの違いによって発生する、私と競馬ゲーム間の軋轢を埋めるためには、どちらかが折れて、一方の社会に入っていき、その社会に迎合するしかない。(もちろん競馬ゲーム側は、たとえ私がノートパソコンの液晶に罵詈雑言を浴びせても、おもいっきりグーのパンチで叩いたりしても、うんともすんとも言わないので折れる側に回るのは私のほうである。)

 

しかしまあ、この迎合をする過程がガチで苦しい。

私の既存の認識を捻じ曲げて、競馬ゲーム側の認識に合わせなければいけないのだ。

ただ情報を覚えるだけではなく、捻じ曲げるという工程が追加される。

これが本当に苦しい。

せっかくタイプ一致でハイドロカノンが撃てるのに、忘れさせ爺さんのところに行ってハイドロカノンを忘れさせて、技マシンでソーラービームを覚えなければいけない。

Windows10の更新はマウスクリック一発でぽちっと再起動するだけで終わっていたが、実際に行う更新作業がこんなにつらいことだとは思わなかった。(否、これは更新ではない、更”古”だ!と、私のプライドをこの括弧内に残しておく)

 

ガチで苦しい。